ぺいちゃんねる硬水編

続いてはこちらの曲。

【5/15追記】美醜表現に惚れる:ネヘレニア、そしてRed Velvetと(G)I-DLE

我が美しき女王ネヘレニア様

現在、新作映画上映を記念して「美少女戦士セーラームーン Supers」と「美少女戦士セーラームーン セーラースターズ」がYouTubeで無料公開されています。Supersのラスボスでありスターズの序章でも引き続き敵として立ちはだかるネヘレニア。私は彼女がとても好きで、幼少期から彼女の登場シーンを何度も見てきました。


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まずネヘレニアというキャラクターを軽く紹介すると、彼女は白雪姫の魔女のように鏡に取り憑かれ、美醜に固執するあまり狂気に陥った人物です。
彼女の言うところの美醜とはルッキズムではなくエイジズムによる(美しくあるために成長を止める)ところが大きいのですが、美しくなくては生きる意味がないというようなルッキズムによる倒錯も含んでいます。
いま思うと”美少女戦士”と対になった人物でもありますね。


ネヘレニアの言動を追いながら、私はずっと美醜について考えていました。
そしていつものようにK-POPプレイリストを聴いているときに、美しさだけでなく醜さにも執念的にフォーカスしている女性グループが2組いることに気づきました。

ネヘレニアがどうやってその呪いから救われるのかはセーラームーン本編を見ていただくとして、今回は浮かんできたそのふたつのグループ、Red Velvetと(G)I-DLEについて書いていきたいと思います。


最初に言いたいのは、2組とも醜さを描いているといってもその描き方はそれぞれ異なるということです。

Red Velvetは美醜は共存してこそそれぞれが際立つという芸術的な描き方、(G)I-DLEは美醜という他者から評価基準を軸に、それに対するアンチテーゼを美学とする批判的な描き方をしています。

美しさの本質を見る Red Velvet

Red Velvet、通称レドベルはK-POPヨジャグル随一の美貌と優雅さを備え、どんな場面でもそれを褒められるグループ。

しかし活動を追っていると、彼女たちは常に美しさとその影にある醜さをコンセプトに秘めていることに気付きます。そしてその醜さとは単純な"ugly"ではなく、残虐性や仄暗さのようなもの。

ポップなかわいさ、不気味な統一感、カジュアルな残酷さ「Peek-A-Boo」


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ゴシックで荒廃美な世界観を展開する「Psycho」


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G線上のアリア」をサンプリングした優雅なサウンドをギトついた打ち込みで刻む「Feel My Rhythm」


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上記した楽曲のように、二面性を備えることにより、レドベルは独自の品格を身につけています。MVでの役回りでも明らかに悪役の位置付けが見られるのはSMあるある。
こんなに底知れない重みを持つ彼女たちから放たれるメッセージは、それはそれで説得力があるというもの。
数年前のガルクラバブル期に活動できなかった彼女たちですが、その確固たる存在感により支持を得続け、いまでも第四世代に負けないセールスを記録できてきます。

その一方でガールクラッシュの波をのりこなし、いまもなおその強さを発信し続けているのが(G)I-DLE、通称アイドゥルです。

美醜の基準は自分で決める(G)I-DLE


アイドゥルは美醜そのものではなく、その評価をする他者に対して意見を投げつけます。しかもリーダーのソヨンを中心にメンバーが自身が詞曲製作にも携わっている、というのがアイドゥル1番の魅力です。
誰かに託されたメッセージじゃなく、自分の言葉で発信する。

SNSの動きが活発な現代で、誤解や理不尽な叩きを恐れずに物申す姿は世界でも稀に見るかっこよさ。

反「女性らしさ」で愚者を挑発する「TOMBOY


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女性の消費を批判的に描く「Nxde」。(人種格差への問題提起も見てとれる)


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そしてついに新作「Allergy」ではuglyの意味での美醜に言及。SNSで傷つく少女たちに寄り添います。まさかの整形クリニックのシーンまで描いていますが、このメッセージはこれだけでは終わりません。


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Allergy」と同EPに収録されたメイン曲では、さらに力強いポジティヴなメッセージを発信。


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「セルフラブ」が叫ばれる世の中で、アイドゥルは決してそれを否定せず、その域に手が届かない、自己評価の低い人々にも手を差し伸べています。美しさが求められるアイドル業界で、自身の過去のコンプレックスも赤裸々に話し、それをいまでは笑い飛ばせる強さが眩しい。世界に広がるK-POPのなかで、こんな風に自らを表現できる彼女たちは特別な存在です。

なぜ彼女たちの美醜表現に惚れるのか


結局のところ、三者同様にものすごく矜持に満ちているところが好きなのだと思います。
美醜にこだわることは、生への向き合い方がストイックじゃないとできません。
自分にとってネガティヴなことを堂々と発信できることは逆説的にはスーパーポジティヴなんですね。
そうい誇り高いひとって本当に魅力的だと私は思います。
ネヘレニアなんて「わらわの美しさ」みたいなこと何回も何回も言いますからね。
最後に、そんなネヘレニアとレドベルとアイドゥルはもちろん全然違う存在ですが、その違いこそが一番大事だと思うので、それをつらつらと書いて終わりにしようと思います。

いきなり話がそれますが、私はこれまでも何度か美醜について語りたいと思ったことがありました。
それは映画「ネオン・デーモン」、「ヘルタースケルター」を観たとき。
どちらも(規模や評価は異なるとして)"美しさ"こそ正義の業界で、そのトップが歪な狂気に飲み込まれていく作品です。

K-POP業界にもそういう面はまだあると思いますが、その単位の多くが"グループ"であるということに救われているパターンはかなりあると思います。
この2組においても、レドベルがみんなで集まった時にイェリとウェンディがおおきな声で騒いでる瞬間、アイドゥルが結託して会社や世間に喧嘩腰でふざけて意見している瞬間、それは他者からの視線を気にしないセーフティゾーンが発生している時間のように見えます。

そういう場面があるのは精神的な支えとして非常に重要だと私は考えます。
アイリーンの美しい孤高も、ソヨンの目が離せないほど鮮やかなカウンターパンチも、ひとりで担うには精神的な負担が大きすぎますよね。

 


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そういうふうに考えると、セーラースターズでうさぎがネヘレニアを(そしてそのあとの敵を)倒す方法が、同情ではなく、ひとりの仲間として手を差し伸べることだった、というのも、案外子供騙しでもなかったのかもしれないと思うのでした。