ある小説のモデルになったという公園が、この近くにあるのだという。
宗助くんのその言い方があまりにも誇らしげだったので、ちゃんとすぐに「行きたい」と言ってあげた。
本当はその小説のことをよく知らなかったし、さらに白状すると、その著者のものを読んだことすらなかった。
それでも興味があるふりをして、宗助くんが望むほうへ話を合わせてあげる。あげる、といってもそれは彼のためではなく、自分のためでしかないことはわかっている。
「それじゃあ服着て」
ベッドの下に散らばった服を拾い上げて、宗助くんはあっという間に身支度を済ませた。
財布も要らない、と言われたので携帯だけを手に持って外へ出る。
ついさっき枕元から見た空は夕暮れだったのに、いつのまにか世界は紺色に塗り替えられていた。
秋になると、こういうものに敏感になる。
もしかしたら冬も、春も、夏も、こんなことを考えているのかもしれないけど、とくに変わっていくものに惹かれるのは、その記憶を覚えているのは、この季節なのだ。
アパートの階段を単調に降りながら、ぼくは宗助くんのつむじを見つめていた。
心なしか最近寂しくなった彼の頭を、思いっきり撫でてみたい。
つややかな黒髪に混じった一、二本の白髪をかき混ぜてみたい。
「すこし寒いな」
部屋を一歩でるだけで、宗助くんの言葉はどこかひとりごとのような感じがする。
返事をするべきかどうか悩むような響き。
一度、共通の友人である康太に、このことを話したことがあった。
でも、康太はぶっきらぼうに「そんなこと感じたことない」と言った。
呆れた顔をする康太には言わなかったけれど、ぼくは秘かな満足感をおぼえていた。
もしかしたらこれは勘違いなんかじゃなく、ぼくの前だけにあらわれるものなのかもしれないと思ったのだった。
人知れぬ古着屋や喫茶店が並ぶ路地を抜けて、商店街へ。
この街にはじめて来たとき、遊園地の偽物の通りを歩いている感じがした。均一の高さで隙間なく建てられた店はひとつひとつが狭苦しくて、はじめて建物をみて“つくりもの”だと思った。そんな当たり前のことに、嫌悪感すらおぼえた。人通りの多さも余計にその感情を際だたせた。
「昔さ、よく噴水がある公園に出かけたよね」
以前宗助くんが住んでいた街での話だ。ぼくもその近くに住んでおり、出会ったばかりの頃はよくそこでデートをした。
「うちの近くの?」
「うん。あの広いところ」
「今からいくところはそんな立派な公園じゃないけどな」
公園につくと、確かにそこは宗助くんが言う通り、ひっそりとした冴えない場所だった。
なんの木かわからないけど、あまり美しいとはいえない植え込み。さびれたブランコ。真ん中には滑り台が佇んでいる、それだけだ。
「この滑り台でさ、」
「これ?」
「この上に主人公が立つんだよ」
「それで何したの?」
「好きな女の子の部屋を見つめる、そしてずっと待つ」
「それはストーカーってやつ?」
興味をもっていいものかどうか悩んでいたら、宗助くんはいきなりぼくの手を掴んだ。
「のぼろ」
宗助くんの手は温かい。
公園のなかを滑り台までつっきって、タンタン……と音を立てながら階段をのぼる。滑り台をのぼるのはずいぶんと久しぶりのことだった。
ふたりでよく行った公園にも滑り台はあったけど、あのとき宗助くんは遊具にまるで興味を示さなかった。芝生に寝転んでだらだら。ベンチに座ってだらだら、するだけだった。
頂上までいくと宗助くんはすぐに手を離した。
さすがに狭かったので、ぼくは一段下に降りた。そこで、手をさすりながらさっきの感触をなんども身体に覚えさせた。
「あそこらへんに、高樹が好きな子の部屋があるんだ」
一段下でぼくは宗助くんの話を聞いた。
下から彼の顔を見上げる。
改めて目を凝らすと、口元には昔はなかった皺ができており、顎には髭剃りまけしてできたのであろう吹き出物があるのに気づいた。
あちらこちらに指をさしながら、宗助くんは雄弁に説明し続ける。
「ふたりがデートした店はあっち」
「不気味な男が話しかけてきた場所はそこらへん」
「相手の友人にばったり会ったのはあっちかな」
「それで……」
宗助くんの鼻の頭のほうに満月がみえた。うすい雲が時折それを遮りながら流れていく。
「ともくんの家はどこらへん?」
ぼくが質問すると、宗助くんはやっとぼくのほうを向いた。
「ともくんの家はあっちだね」
聞いてみたものの、続く言葉が見つからなかった。別に知りたくもなかった。でもなぜか聞いてしまった。
宗助くんはちょっと困ったような顔をして、
「そろそろ帰る?」
と言った。ぼくが頷くと、宗助くんはどうやら階段から降りるつもりだったらしく、真っ白なシャツの冷たい繊維が、ぼくの鼻に触れた。
「滑らないの?」
「滑りたい?」
宗助くんは、ちょっと面倒くさそうにぼくを見下ろしている。
「そうだね」
だって、滑り台にのぼって、また階段を降りていくなんて滑稽だと思ったから。
でも大のおとなが滑り台をすべるのもまた、滑稽なものだ。ぼくは滑っていく宗助くんを見つめながら思う。きっと傍からみると、いまのぼくら合わせて、そういう風に映るんだろう。
幸いそこにひとはなかった。
だから、公園の出口まで歩いている間、妙にキスがしたいと思っていた。
風が吹くたびにその想いは徐々に強くなった。
でも途中で宗助くんはポケットから携帯を取り出し、誰かと電話をはじめた。
彼の歩調はだんだん速くなって、すぐにふたりきりの公園から、人ごみのなかへ戻っていった。
行きに通った道とは違うルートを通って帰っていく。途中民家の庭に生えた金木犀の匂いに気づいた。宗助くんに話しかけたかったけれど、その間もずっと彼は電話していた。
家まであと数十メートルというところにきてやっと、電話を切った。
「ごめん、今日ともくん帰りにうちによるみたい」
「そっか。わかった」
部屋に入るとすぐ、急いでカバンに荷物をつめる。
「来月また泊まりにきていい?」
「いいよお」
間の抜けた返事だ。その間、宗助くんは夢中で携帯を触っていた。
おじゃましました。
古びたスニーカーを引きずりながら部屋を出る。駅まで続く道を歩きながら、あと何度あの部屋に行けるのだろうと考えた。あと何度この趣きもなにもない道を歩いて、あのひとに会いに行けるのだろう。この古びた駅まで、電車に乗って。
改札にタッチして顔をあげると、階段を降りてくるともくんの姿が見えた。
ともくんは電話していたけれど、すぐにぼくに気づいてやさしく微笑んだ。
会釈をして、逃げるように通りすぎる。
久しぶりにともくんと顔を合わせてしまったせいで、心臓がばたばたとうるさい。
「あっちには新しい恋人もいるんだから、いいかげんそういうの、やめたら?」
あのとき康太は言った。
「でも、ともくんはこのこと知ってるみたいだし、気にしないって言われてるらしいから」
「それでも、惨めでしょう」
「惨め?」
ぼくは物分かりの悪い子供みたいにおうむ返しした。そして、
「そのほうがいいんだよ」
と、付け加えた。
ホームに立ってすぐ、街のほうを見て、宗助くんの家を探す。きっとあれだろうという灯りを見つけると同時に、電車がホームに入ってきた。ぼくはそれに乗らず、さらに二本ほど見送った。
ぼくはその間、宗助くんの家の灯りを見つめていた。
滑り台よりももっと高い場所から、じっと見つめていた。