金色の棘が、やわらかな指先を傷つけはじめる。
いまぼくは、学ランの襟もとにつけた校章を入念に触るきみを見ている。
ときに鑑定士が誰かの宝物を扱うように丁寧に、ときにシンクの汚れを落とすときのように力強く、校章に刻まれた溝をなぞる。
トレードマークだった眼鏡を外してからというもの、前田くんはそわそわすると、必ずそうして心を落ち着かせるようになった。
そんな彼の新たなクセに、気づいているのがぼくだけだったらどうしよう。
まぁ、どうもしないけど。
でも、電車のなかで目が合うと言っていた他校の女の子とか(話を聞くとどうやら隣町のお嬢様学校の子とも目が合うらしい。ぼくはその高校に通う女の子が着ている高慢な制服がきらいだ)、いつもヘッドホンをしている女のひととか、同じクラスの子たちとかさえ、気がついていなかったらこんなに嬉しいことはない、と思う。
古びたスーパーの廂の下で、ふたりきり。
授業が終わったあともだらだら教室に残っていたから、もう外は深々と暗い。
それに空気もきりりと冷たくて、明日はテストなのに風邪を引いてしまいそうだ。
帰り道を急がせるには十分すぎるこれらの要素が、いつもは生徒で溢れかえるこの場所でふたりきり、という空間を奇跡的に保っていた。
「それで、清野さんと付き合うことになったよ」
緊張しながら言葉を紡ぎはじめるきみの顔を見て、思わず笑ってしまいそうになる。
前田くん、それくらい誰でも知っているよ。
二学期が始まって清野さんとよく会話するようになったきみが、突然分厚い眼鏡を外してコンタクトレンズを着けるようになったことも、文化祭の間、きみたちがふたりきりで校内を歩いていたことも、そういうことなんだなって、みんな察していたんだから。
「マジで!やったじゃん。やっぱ文化祭がきっかけ?」
ぼくが出来たてのコロッケを食べながら問いかけると、前田くんは照れ臭そうに頷いた。
六限の体育終わりに塗っていたオレンジのシーブリーズの香りが、第一ボタンまでとめられた学ランの隙間から漂ってくる。その匂いは、もううんと寒いのに遠い夏の日差しを思い出させた。
「もうデートとかした?」
前田くんは再び校章を撫でながら、この前はじめて同じ通学列車に乗ったことや、最寄り駅に着いてクラスメイトの顔を見た瞬間恥ずかしくなって離れてしまったこと、来週末に遠出して一緒に買い物することなどを教えてくれた。
そのときぼくはというと、半分うわの空だった。
清野さんは、前田くんのクセに気がついているのだろうか。
オレンジのシーブリーズの香りで、彼を思い出したりするのだろうか。
きっと彼女は、ぼくの知らない前田くんの顔も見ているんだろうな。
そんなことを考えながら、さも興味ありげに聞いている風を装った。
まぎれもなく、このときぼくは失恋した。
でもぼくはやけに冷静だった。
清野さんも、前田くんすらも知らない、ぼくだけの秘密のおかげで。
前田くん。
きみがいま触り続けているこの校章は、本当はぼくのなんだ。
文化祭の日、ぼくはふと用事を思い出し、クラスメイトたちと離れひとり教室に戻った。
ひとが出払ったあとの教室は、朝一番に登校したり、放課後最後まで残ったりしたときとは違う静けさがあった。
生気のある静けさといえばふさわしいだろうか。とにかくぼくは居づらくなって、すぐに用事を済ませて外に出ようと思った。
でもそのとき偶然、前田くんの席に彼の学ランがかけてあるのに気づいた。
ぼくは思わず、それに手を伸ばし、彼の皮膚のあとがべったりついた校章を取り外してしまったのだった。
そしてぼくは急いで自分の首元に刺さった校章をもぎ取り、彼の学ランの空洞に差しこんだ。
あのときの乱れた息と額を落ちた汗の感触をいまでも鮮明に思い出せる。
親に言えないような“ワルいこと”をしたのはそのときが初めてだったと思う。不細工な男がリコーダーを舐めるような、いやそれよりもっとタチがワルいこと。
その後、ぼくは何喰わぬ顔して、クラスメイトたちと合流した。そして平静を装いながら日々を過ごし、いまもきみと自然に話している。きみの校章を身につけながら、ぼくの校章を撫でるきみを見ながら。
馬鹿みたいだ、と自分でも思う。
こんな気味の悪いことをするなんて。自分で自分が信じられないんだ。
こうして放課後に、彼女ができたことを律儀に報告してくれるきみに、ひどいことをした自覚はある。
彼女がいるきみを好きだなんて、無意味。報われるはずがない。
それもわかっている。
前田くんはひとしきり話をしたあと、「寒くなったね」なんて言いながらベンチから立ち上がった。ぼくもそれに続いて立ち上がる。そしてスーパーの駐車場に停めてあった自転車を押しながら、駅までふたりで歩いた。
「お、見て見て。満月」
指さされたほうを見ると、そこには白すぎて透き通るほどの月が浮かんでいた。
「マジだ。きれいだね」
他意はなかったけれど、駅に着くまで、その言葉に返事がくることはなかった。
ふたりの間に沈黙は珍しくない。
それでも、この瞬間だけはそうなって欲しくなかった。
「じゃ、また明日」
ぼくが片手をあげるとようやく前田くんがこちらを向いた。
「うん、気を付けて帰れよ。そういえば」
「なに?」
「清野さんと付き合ってること、誰にも言わないで」
そう小声でつぶやくと、前田くんは駅の階段をゆっくりと登って行った。
前田くん。
きみはいつか、その学ランを脱ぐときが来る。
眼鏡を外したあの日みたいに、またひとつ大人に変わるときが。そうしたら、きみがその校章に触れることはなくなる。でもぼくは平気だ。
だってそのときが来たら、ぼくもきみの元から離れることができるんだから。
この街を出て、見知らぬ誰かとビールを飲んだり電車に乗ったりコンビニに行ったりネットフリックスで映画を観たり、狭いベッドのなかで強く抱きしめあったりする。そしていつか、今日のことも、校章を取り換えた日の教室の匂いも、きみを好きだったことすらも、全部忘れてしまうだろう。
約束する。
そうなってしまえば、ぼくはもう二度ときみを思い出したりしないよ。
だからせめて、いまはともだちのままでいさせて欲しいんだ。
自転車のペダルが重い。
鼻の頭にあたる風が痛い。
通り過ぎるトラックの排気ガスにまみれながら、ぼくは満月の透明に身を委ねることにした。
―終―
この小説はフィクションです。実在の実在の人物や団体、楽曲などとは関係ありません。
BEYOOOOONDS『眼鏡の男の子』(BEYOOOOONDS [The boy with the glasses.])(Promotion Edit)